2020年10月20日

仕事をしている時、頭がぞわぞわして叫びだしたくなって泣きたくなって気が遠くなって、帰りたい、もうだめだ、となってしまった。
ほんの短い時間なのに。
この頃時々そうなる。


帰り道、
どうすればいいんだろうと考える時、音楽が鳴ってないからじゃないかと思った。
音楽が鳴っている場所が好きだ。音楽が聞こえると、一瞬で救われたりする。悲しいことが全部当たり前に思えたり、空中に踊り出すみたいな感覚になる。
同じ仕事でも音楽が鳴っていたらこんなに苦しくないだろうと思った。







通夜に行って、
相変わらず苦手なこんな儀式、葬祭場での祭礼、
どうして黒い服を着るのか、誰に対して失礼にあたるのか、わからない。ほんとに必要なのかな。亡くなった人は、黒い服を着てた方が魂が喜ぶのかな。安らぐのか。わからない。
現代に残る、かたちだけに思えるような礼儀のようなものは、しないとだめなのか、こういうのをしなければ、死ねないのか、無縁仏、となることは、悲しいことなのか、神様は、仏様は、そんな儀礼をほんとに必要としているのか、どんな人にも、身体のほこりをはらって、よくがんばったね、とか、いらっしゃい、とか、言うんじゃないのか。
わからない


ふと、安倍のおばあちゃんのお葬式を思い出した。
あれはとてもよかった。
葬祭場じゃなくて、家で、
襖を外したりして広くした部屋で、
町内の人が出たり入ったり集まって、
お経が延々つづく。
お通夜は神楽の日みたいに、夜通し。
町内の人がわいわいしている。
外で鐘の音が鳴る。
人が亡くなると鐘を叩いて練り歩くと聞いた。
カーン、カーン、と遠くで響く。
お葬式が終わって帰る時、玄関先の部屋でおばさんが
たんすの引き出しを開けまくっていて
「いるのない?持って帰って!」と、
亡くなったおばあちゃんの着物や洋服をくれた。
その服は今も着ているよ。
あれは17年前だったんだって。
あのお葬式はよかったなあ、
と、思い出した。


今日は、仕事も、
デイサービスでいがみあう子供たち
障害のある子は純粋でという人もあるけど、わたしたちと同じで、意地悪でずるくて身勝手で、閉じ込められた空間に集められて、安全の確保のために制限された中で、できるだけ体験や、自由な選択を、と、精一杯の中で、多くの子がいらついているように感じたりする。

命を守るだけでも大変なことだ、当たり前な生活を確保するだけでも。途方もないことだ。
守る人の労力、慈愛、すばらしいものだけど、すばらしいものなのに、
保護された中での自由、を、いつも
何もわからないのにぼんやり思ってしまう。
自由に、生きるということ。
出たい時に外へ出たり、走りたい時に走ること。
欲求。自分の、欲求が満たされること

生きるってなんだろう
こんな、阿呆なことを考える時は、
勝手に、むなしく悲しくなる。なにもわからなくて、絶望しそうになる。

それでも生きる、
生きている時間で、やるべきことは、なんだろう、
と思った。

ふと、少し思ったのは、愛し合うこと、
なのかな、と思った。
いがみ合わないこと、
心をかよわせること、
一瞬でも、心をかよわせること



おばちゃんの遺影の写真眺めながら、
もし今、音楽が鳴っていたら、と思った。

音楽が鳴っていたらわたしはしあわせだ。
音楽があるところで働きたい。
うたいたい。
音楽のことで働きたい。
と思った。
そしたら笑ってる写真のおばちゃん
さらに笑った気がしたよ。

こんなに苦しくてたまらないなら、
ほんとにこうしたい、と思うことを
もっと願おう

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