2025年3月7日

仕事に行くと、
わたしは疲れてくると、そこにいるこの子のことを、
どうなったらしあわせなんだ、と考えるのか、(なんにもわからんのに主観強い図々しいクズの見方)
「少しでも」自分の思う通りに、「少しでも」心地よく、と、しつらえられた支援の中で、無事で生きて死んだら、それが「よい」なのか、
とかを考えてしまうのか、
気がつくと放心している。

それは支援者の方々が命がけくらいの労力で毎日精一杯心を砕いてやっておられることなのに、それをすっ飛ばして、なんにも希望を持って考えられなくなって、
「なぜ神様は」、すべてが自分の自由で、思いきり生きる、を、人によってできなくしているのか、なぜだ、と悔しくて腹が立ってしまう。

成長する、卒業する、自分の力で、やりたいことをやるために努力して、達成していく、
は、当たり前じゃないけど当たり前のように思いがちだけど、「成長する」がなかったり、ずっと、暴れるから閉じ込めるしかなくなったり、(それはどうしても、支援する人の人数も足りないし、まわりの子が暴力の被害に遭うというのは、それはのびのびとは言わないから、隔離される。
合うように、落ち着くようにと細かく調合された薬が合えばなんとか支援ができる。薬は、だけど身体に負担もかかるし、しんどそうにしていることが多い。身体への負担が大きい。)
卒業の区切りも成人の区切りもあんまり関係ない。
むしろその先どうすると保護者は新たに悩んだりする。
こんなことは、
「どんぐりの家」を読め!!そこに書いてあるから。
絶望はダメだと書いてあるから。

仕事場は、「終わらないんだなあ」の恐怖、
誰が死んでも、終わらない
誰かが誰かを支えないといけない
でも支えることでつぶれたらいけない

家では、「終わるんだなあ」の恐怖、
一人一人死んでいくこと、今日はYおじちゃんの法事、3回忌か、
兄弟で一番若いおじちゃんが亡くなった。
父と同じだ。
子供の頃、法事は家がごった返すことだった。嫌いだったけど。たくさん人がいたなあ、と思う。
そんな時しか会わないおじい、おばあ、なつかしい。

帰宅してすぐに横になって寝た。駐車場で30分くらい発車できずぼーっとして、家に着いてまた車から降りることができなかった。

昼寝から覚めてふと、はるに20年前のイロモネア見せようかとHDレコーダーを起動しようとすると壊れていた。ビデオとDVDも見れる機械だったけど、地デジとかになってテレビの受信には使えなくなったんだっけ。それでもビデオの再生に使える貴重な機械だった。そりゃあ何十年も使えば壊れる。どれだけ楽しませてもらっただろう。ありがとう。と思った。電源コードを抜き差ししてみると、ちょっとだけ、動こうとしたり、デジタルの文字が点灯したりして、おじいちゃんみたいだった。少し点くけど起動しない。
ビデオもDVDも見れなくなって、大量のビデオテープはいよいよもう誰も見ないのかな。はかないな。


ライブ演奏を「よかった」と、ほんの一言でも言われたら、生まれてきてよかったなあと思う。だけど、やっぱりほんとうに誇れたものではないから、すぐに絶望がくる。たとえば、ほかの人の辛辣な評価で終わる。
それはその人の物差しで、どうでもいいのにね。
だけど、それでも。
「よかった」と言ってくれたり、いいとか悪いとかじゃなく親しく日常の言葉を交わしてくれる人がいる。とてもうれしい。その人たちに出会えただけでうれしい。
心身はすぐに、仕事行ったり、家族や親戚に会うとストンと落ちて「絶望」がやって来る。
けど、あれか。ホルモンバランスか。
ひたすら考えんように(できれば日記も書かんように)。
今日は白水さんの誕生日。
夜中、12:00を過ぎた時思わずドサドサお祝いメールを送ったよ。
白水さんも、啓蟄を迎えてきっと身体軽くなるね。

Powered by Blogger.