
サーカスを見た。
演目が始まるとしばらく泣いていた。
マルセルマルソーが大好きだったことを思い出した。
バレエが大好きで、ローザンヌ国際バレエコンクールをテレビでじっと見てたこととか思い出した。
手の先、足の先、
バレリーナの動きは、たぶんわたしが見て「すごい」とわかるような動きはそんなに難しくなくて、わたしが見過ごすような、なんでもなく見えるような動作にこそものすごい高度な技術があるんだろうなあ…と思っていた。そんなことも思い出した。
舞台(空中ブランコのネット)から降りて去って行く後ろ姿まで美しかった。
木下サーカス、幼稚園の頃に1度だけ見た。
こんなふうに蒸し暑い真夏のテントの中、網の球体の中を走るバイクが怖くて怖くてそればっかり覚えているけど、たしかに今日も球体のバイクがめちゃくちゃに怖かった。
死なんでくれ、と祈り続けた。
動物たちも。見ている間ずっと祈った。
「動物たちに言うことを聞かせる」芸はもうすたれていく気がした。
たぶんお客さんみんな同じような気持ちじゃないかと思った。
パラパラと鳴る拍手は心配そうな音に聞こえた。
動物使いの達人らしい外国の人は、ムチを手に持っていてそれだけが怖かったけど、でも目立たないように透明っぽいし、叩くことには使っていなくてただの合図の目印のように見えた。
違うかもしれないけど、動物を愛している優しそうな人に見えた。
あまりの暑さに動物たちもバテてるように見えたけど、無理にやらせることなくダラダラと演技が進んで、だからウケてなかったけど、ちょっとほっとした。
優しくされてくれ、愛されててくれ、長生きしてくれ、ここにいるのは本意じゃないかもしれないけど、しあわせで、苦しくなくて元気に生きてくれ、と祈った。
とても年老いて見えたライオン、少し動くだけでもしんどそうだった。何度も何度もたきつけられてやっとゆっくりゆっくり歩いて移動した。そういう芸のように見せてたけど、ほんとにしんどかったかもしれない。やらんでいいんよ!と心の中で叫んだ。小さいポニーも、しまうまも、かわいそうに見える時があった。
きっとこういうのはもうすぐ消えていくと信じる。
はるは、何が良かったか聞くと、「マジック!見たかったからうれしかった!」と言ってた。外国のベテランっぽいイリュージョンの人が来てて、瞬間移動とかすごかった。
それと、ピエロが客席の人を見繕って舞台へ上げて、突然なのに台本があるみたいにコントをしてたのがよかった、目の前で見れてうれしかった!と言った。
せーちゃんが「裏方の人まですごかった」と言ってたとおり、場面転換が速やかで、ずっと夢の中みたいに途切れずに演目が変わった。
裏方の人(?そもそも裏方とかないのかもしれない…みんなで作っているのかも)も踊りの素養があるのか、みんな所作が美しかった。
道具の受け渡しひとつでも、びっくりするほど美しかった。
真っ白い妖精みたいな女性がくるくる舞い踊ったり宙に浮いたりすると、それだけで涙が出た。
以上で終わりです、という時も寂しくて涙が出た。

行きの新幹線では、
あれ?外に出たのに、地獄が消えない、と首をひねった。
移動は癒しなのに、って。
景色がびゅんびゅん変わっても、まるで家の中、頭の中みたいで苦痛で、帰りたい、と思いながら新幹線に乗ってた。
でも会場に向かうバスの中から、専門学校があった大手町、はるを抱っこしてしょっちゅう行ったブックオフ、学生の頃食堂に食べに行った市役所、よく行った郵便局、純と何度か自転車こいで行った住吉町の橋の手前、のっこんの家があった南観音は、このへんだったのかなあ…と眺めている時、頭の中が連動して過去を辿った。
ふと、わたしは何かを選択する時、常に「身近な人がどう思うか」で決めている、と思った。
学生の頃、Kさんが暴れて嫌がるから黒平たちとの交流を絶った。
純の意思を、なるほどと思って自分を変えた。もし純に出会わなかったらどうだっただろう。ギターを売ったりしなかったかな。でも純はたくさんの大事なことを教えてくれた。
引越しとか大きな決断、あれは自分の意思だったのかな、とバスの中で振り返った。
些細なことでも、今も、「この人と仲良くしたらこの人はどう思うだろう。寂しく思うんじゃないか。」とかで判断する時がある、と思った。(びっくりする。浅慮。小学生か。でも常にやっている。)
それは、「境界線」とかかわることのような気がした。
人との境界線が引けないのは「おかしいこと」だと、最近はじめて知った。
昔から、自分の皮膚と外界や他人との境界線がとても嫌だった。この隙間に嘘がある、とかを思っていた気がする。
もうあんまり覚えてないけど、弾き語りを始めた頃は、
「ライブが終わったらみんな帰って行く。なぜ帰って行くんだろう。わたしは着ぐるみのようにその中に入ってしまいたい」
と思っていた。
急に境界線が引かれることが悲しかった。
だから境界線は、「なくなればいいのに」だったけど、その感覚は正常ではないんだって。
そういうのは抑圧の体験から生じたりするらしいけど、わたしの両親は押さえつけるどころかなんにも命令もせず、かなりの放任だった。それなのになぜこんな感覚を持ったんだろう、と思った。
ただ単に脳の作りかな。
わからない。
ひきこもり明けに少し人と関わるようになった時、自分にものすごく自信がなくて、ちやほやされたら嬉しくて、頼みこまれたら押し切られて言いなりになることはよくあった気がする。
今も、「自分の判断」というものにまったく自信がないから、「そこまで言うならそうなのかも。この人を超えた、天の声なのかも。」と従うことは多い。
それが良い場合もいっぱいある。
あるけど、もうちょっと知りたい、直したい、と今日は思った。
境界線がないから、人に対してもズケズケと、自分の意思や正義を押し付けて気付かず、勝手に苦しんだりしてしまうんだろうと思う。
泉谷しげるの「自分だけの今日を生きろよ」ともつながるような気がした。


2024年7月21日
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