2024年6月26日

「ヒストリエ」12巻を読むために、1巻から読み返している。
一昨日は1巻、昨日は2巻、を読んだ。
この2冊だけでもほんとうにしあわせだった。岩明均さんはほんとうにすごい。
こんなふうに淡々と生きたい。
苦境に落ちても、まあいいか、と平気で生きたい。
苦境にあっても平然と。切り抜ける知恵を出せるように。淡々と生きたい。
根本は「どうでもいい」なのか、真反対の「あきらめない」なのか、わからないくらいフラフラのゆらゆらのほわほわの中道の、ずっと風がとおっていてよどまない心。読んでいる時とてもしあわせな気持ちになる。絶望が消える。
今日は3巻を読んだ。



それから、
NHKの「北海道兵、10805人の死」という番組の見逃し配信を見た。
 https://www.nhk.jp/p/hokkaido-special/ts/QMWX4Q1GYQ/

「アメリカ軍が『ありったけの地獄』と呼んだ沖縄地上戦で、10805人の北海道兵が戦死した。沖縄で亡くなった20万人を超える戦死者のうち北海道兵は1万人を超える。だが戦死公報には、名前と日付、亡くなった場所しか記されていない。」
だからせめても、誰がどこで、どのように生きていたか死んでいったか、追ってみる、という番組だった。遺族もすでに亡くなっていて何もかもが不明という人もいた。

日本で唯一の地上戦。
1945年6月の沖縄では、生きるより死ぬ方が当たり前だった。って。
昔、沖縄に行った時、泊めてもらった家のおじいに、「あそこの親父は首に鎌の跡があるよ。アメリカが来るっていう時、親に殺されかけたから」と戦時中のことを少し聞いた。それで頭の中にぼんやりと、地上戦はとんでもないものだという薄暗い戦争の情景があったけど、ほとんど何も知らない。実際の映像も写真も見たことがなかった。

アメリカの撮影なのか、わずかに残っているという当時の映像は、火炎放射器のような大量の炎を吐き出す武器で、逃げて走る兵隊たちが焼かれていたり、洞窟の中に向けても火炎放射器、防空壕の中に爆弾を投げ入れて爆発させる映像が流れた。

怪我人を手当てする病院は、建物じゃなく洞窟の中だったりしたって。その場所は今は、鬱蒼とした藪の中や道路の下に埋もれているって。
洞窟へかつぎこまれても、麻酔も消毒もなく、治療しても多くの人が亡くなった。
ある洞窟には、腐って溶けて運べない遺体が山のように置かれていたって。

それから、今はおばあさんになっている女学生が当時の野戦病院のことを証言していた。
「両腕を切断した兵隊さんがいて、寝てるそばを通るたびに『学生さん、学生さん』と声をかけてくれるんです。
『ぼくはね、北海道の出身なんです』って。
『今ごろ北海道ではきっと、すずらんの花が咲いているよ』
わたし、すずらんの花、わからなくて。
『もしぼくが生きて北海道に帰ったら、
あなたにすずらんの花を送ってあげようね。
学生さん。
ありがとう。
ありがとう。』
そう言って、亡くなったんです」
って。
淡々と、怒りも悲しみもないみたいに、その番組はただ静かに亡くなった人たちについて語られていた。1時間ずっと。

わたしは広島の原爆のことしか知らなかったけど、原爆で亡くなった人たちのことを、「きっともう成仏している」と思っていた。今もう苦しんでいない、と信じていた。ずっと前に旧日銀の被曝建物で、幻聴だけどそんな声を聞いたから。
でも沖縄戦の映像を見ていたら、火炎放射器で焼かれたり、亡くなる前も亡くなってからも物のように扱われた人たちの恐怖や虚しさは、まだ消えていないと思った。
勝手に。浅はかに。もう消えていると思っていた。
ごめんなさい。


そのあと。
めずらしくまったく眠気がこなくて、4時か5時まで暗闇の中で眠れなかった。不眠はこういうのか、つらいものだなあと思った。
眠れそうと思っても、ちょっとの物音でガッと覚醒しながら、この世の災害、火事や地震、病気、経済的不安、何にいつおそわれるかわからないという恐怖に追いかけられたり、母や兄の健康、無事なのは奇跡みたいなもんなのに日々感謝もせず悪態をついていること、4月末から突然体調を崩してあまり遊びに来なくなった母の友人のこと、父が建ててくれたこの家、古くなったこの家にわたしはいつまでいさせてもらうつもりだろう、と、ひたすら絶望と恐怖がおそってきて、ごめんなさいごめんなさいと繰り返し唱えた。なにもかもが嫌ですぐ死にたいと思うことを謝った。(人も物も無事であることが、今あることが奇跡のようなものだから。あまりに儚いから。生きていることがつらくなる。)ごめんなさい。
しまいに眠ることをあきらめて、なぜこんなことになったか、「これまでのこと」を思い出して辿ろうとした。

沖縄に行って、出雲から帰って来て、人前で歌をうたうようになった、あのほんの3年くらいの間だけ、わたしはしあわせだったのかな、などと思った。
忘れてるだけだ。あの頃こそひどかったけど。

あの頃、R姉ちゃんはパソコンを使っていて、応接間にあって、ソリティアのやり方を教えてくれたり、メールもしてた、と辿った。姪のMちゃんが産まれて、お祝いを持って会いに行った時、すごく喜んでくれた。赤ちゃんの姿をスケッチしようと画材を持参した(けど描けなかった)ことを伝えたら、「描いてくれるつもりだったん」って、「その気持ちだけでうれしい」って、満面の笑顔で喜んでくれた。
その頃はまだ手紙のやりとりを時々してた。「今こんなのを聴いてます」ってビョークとかいろいろMDに録音して郵便で送りつけた。そしたらR姉ちゃんは、「今ちょっと耳が悪くて音楽が聞けなくて」と返事をくれた。おばちゃんも若い頃から耳が聞こえづらくなっていたから、同じような症状なのかなと思った。それで音楽を送るのはやめた。

子供の頃、R姉ちゃんはフリッパーズギターを全アルバムカセットテープに録音して送ってくれたりした。そのお礼みたいにわたしも送りたかった。
あの頃は、おじちゃんもおばちゃんもいた。今はおじちゃんもいなくなった家で、R姉ちゃんはインターネットもしていないのか、とぼんやり思った。
(庭はとてもきれいにしてあって、いっぱい植木があった。花が咲いてた。5月に行った時。)

Powered by Blogger.