2023年7月9日

道路を原付で、カブで走ってる人の姿を見ると、おじちゃんに見えて次の瞬間おじちゃんが死んだことを思い出して脱力する。いつも、いつも。

車の中で、今日もそうなって、今日は隣にはるがいたから、すぐそのことを話した。思わず。
「おじちゃんは、なんで、死ぬかもしれんって言われても、なんにもせんかったんじゃろう。散歩とかしかしてなかった。旅したり、会いたい人に会いに行ったり、好きなことすればよかったのに。って、思ってしまう。」と。

子供は巣立ったし。仕事は定年退職したし。すべて立派にやり遂げたんだから、もういくらでも好きなことして遊べばいいのに。うちへ来て、神様に祈ってた。病気にいいと聞くものを試したり?本を読んだり?

どうして、友だち、いなかった?昔、わたしが子供の頃、おじちゃん、友だちと遊んでた気がする。
でもお葬式に来てたのは、友だちは1人きりだった。


おじちゃんは若い頃、「なんでみんな高級車買うんか分からん」と言ってた。1度だけ、そんな会話をした。わたしが10代の頃。
あんなのただの見栄じゃろ、みたいなこと言ってた。
でも結婚して子供が生まれたらおじちゃんは高級な車を買って、家も建てた。それでいて、家族を持った生活を謳歌してるようには見えなくて、車もあんまり乗ってるとこ見たことない。スーパーカブに乗ってた。
大きくなった息子たちと野球の話してる時は楽しそうだった。

家も車も、そんなもん持ってたって生きる喜びとは繋がらない、と言ってた若い頃のおじちゃんと、歳をとってからの楽しいことは特にないという顔のおじちゃん。
変わらなかったところは、人が集まれば盛り上げようとしたり、笑わせようと努めるところ。大袈裟に笑ったり、大声で話したり。わたしにはそれが、「人と深く関わろうとしない」「表面的な会話で逃げる」「憩いは酒と煙草だけ」の姿に見えた。

おじちゃんのことを嫌いという感情はまったくないのに、血がつながっているからなのか、もどかしい、
過度に人に遠慮したり、気を遣ったり、「人と関わろうとしない」おじちゃんが、
散財して遊ぶこともなければ社会的貢献に力を使うこともないおじちゃんが、
きっと「死にたくない」と思っていたおじちゃんが、なぜ死んだのか、若くして死んだのか、死にたがってなかったおじちゃんが、なぜ死なないといけないのか、死んだことが、解せなくて、何に対してか許せないような気持ちで、
カブを見かけると、そのたびに「おじちゃん死んだんて」と呟いて首をかしげてしまう。
わからなくて
嫌で、嫌で

悔しくて


だけど今日、
はるに話すと、
たしか前にも同じことを言われたけど、
「おじちゃんは、日常が好きだったんよ」
と即答された。

「ママにとっては、旅をするとかが、好きなことでも、おじちゃんはただ何もない、何も起きない、日常が1番好きだったんよ。」

それで、やっと少しわかった。気がした。

「死にたくない」なら、やり残したこと、今までやりたかったことをやればいいじゃんか!なぜやらないんだ、と思っていたけど、おじちゃんにはやり残したことはなかった(はるの説のとおりなら)、「死ぬのを怖がって(わたしの勝手な想像)」、本を読んだり、ひたすら散歩したり、それも美しい景色の場所じゃなく、ショッピングモールなどの雑踏を好んで、1人黙々と歩いていたのは、ただそこに向かうためにカブに乗って走っていたのは、神様に祈ったり、人の言うことを有難がって聞いたりしていたのは、ただ、何も起きない日常が続いてほしかったから。
何も起きないまま。何もないまま。

そうかもしれない。今日は納得した。
とにかくなんにしたって、はたから見た者が人の一生を「かわいそう」と思うなんてのはありえない、無礼の極みで、阿呆だから、もう絶対に、感傷を持って思い出さない。

どんなに想像したってわかるわけないのに
ごめんなさい

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