やっぱり仕事の内容が、家庭内の虐待や、搾取や、暴力が度を越してきたから最終手段の入所施設に入れるとかの、申請書を書いたり、生育歴を清書したりするということと、それについて電話で関係機関と話し合う声が聞こえてくるというのが、苦しい気持ちの1番の原因かもしれない。
死ぬということがわからなくなる。
終活という言葉ができたみたいに、
誰にも迷惑かけず生きる、誰にも迷惑かけず死ぬ、は、そんなにも重要なのか。わたしにとって死は「さみしい」「かなしい」「苦しい」「何年経っても受け入れられない」「かなしい」ものだけど、かなしくて立ち止まるなんて、動けなくなるなんて、「事務手続き」ができない場合、現実を知らない感傷にひたる迷惑なクズなのか。お葬式をしないと死ねないのか。儀礼はそんなに大事なのか。海に捨ててはもらえないのか。虫に分解されて土に還るなんていうのは完全に幻想なのか。
現代の日本の最低限の生活をできない者は、運良く発見されても小馬鹿にされながらたらい回しになるから生まれてこない方がいいと言われているような気持ちになる。
わたしを雇ってくれている人は人並み以上に献身的で心の優しい人たち。ずっと長いこと、たくさんの人をたすけている。自分たちが体調を崩したり私生活を犠牲にしながら、他害行動には命の危険も感じながら、ずっと仕事を続けている。しかも明るくて優しい。冷たい施設とは感じない。それなのにどうしてか、その建物の中にいるとふらふらになる。帰り道、家に帰ってから、生きていることがつらくてたまらなくなる。電話で話し合う声は、人に迷惑をかけず、屋根のあるところに住んで、一生涯施設から一歩も自由には出られなくても、清潔にまっとうに死ねたら良し、死んだらこの案件は終わり、休む間もなくうしろに控えているたくさんの案件を処理しないといけない、ほんとに大変、
と言ってるように思える。
それがボディブローみたいにきいてふらふらになる。
2022年6月27日
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