今日、生まれて初めてくらい、苦もなく高音も低音も出た。ギターの音も、まっすぐ整ったすごくいい音がした。この間ブヨブヨだったのに。なんだろう、これは。
必死にならなくても音程が狂わないから、まるで普通の人みたいにうたえる!と驚いた。今日1日だけじゃなくて、この感覚を持ち続けたいと思った。
うたっている時、なんにも考えなかった。自分がだめだとかを。何かがとてもシンプルだった。世の多くの歌を歌う人は、いつもこうなのかもしれない、と思った。
わたしは自分の歌を、ちょっとしたことでだめになる、精神性だけで保ってる歌声の気がしているけど、たとえば音程をはずさずうまく歌えても誰も喜ばない上に、得意になったらその瞬間「良さ全部消えたわ」と全員に思われる、失望させたり踏みにじったりする、と思っている。
今かっこつけただろ、嘘ついただろ、と横に自分を置いて見張っていないと、人が喜ぶうたはうたえないと思ってきた。
今日みたいに、突然贈り物みたいに音程がとれる、自分じゃないみたいに自由に声が出る、これも、もし「ずっとこうありたい」と思ったら欲ばりとみなされて取り上げられるのかな、と思った。
そんなの嫌だな。うたえる!やった!でいいじゃんか。増長とか慢心とかそんなことに左右されたくない。
とてもシンプルに、よろこびながらうたいたい。
「よろこぶ」ことは、イコール浮かれることじゃないはず。
よろこんでても、笑ってても、聴いて!と手を伸ばしながらでも、だめにならないうたをうたいたい。
それで、人に喜んでほしいけど、喜んでもらえなくても、今日みたいに「のびのびうたう」ためのことをやっていけたら、(努力というより、毎日空中に手を伸ばして確かめながらうたうみたいなこと・・・今日うたっていた1時間か2時間か、ものすごくしあわせだった。はじめて、「うたう」ことができた気がした。)うたうことが、こんなに少し浮かんで解放されるような行為だったら、生きることは苦しくない、楽しい、という気がした。
(そんなことを思えば即座に、どれだけ時間があると思うんだとか、何かとひきかえになるかもねとかの声がするけど、そんなことを今は聞きたくない
2022年4月28日
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