2020年4月22日

わたしが外出を「自粛」するのは、
国から「要請」されたからじゃなくて、
これから移植に臨む子どもが、ご家族が、
治療中で免疫力がほとんどない状況の人が、
ただでさえ心身が休まる間もない生活が
さらに大変になる。
それが怖くて、悲しいから。

どんなに「気にしすぎ」と言われても、だめだ。

これは個人的な感覚で、
ただの、トラウマ発動、
だから人に何かを言いたい、とは思わない。思えない。
人と気持ちを共有できない。


いつかツイッターで、知らない人が、
「コロナで死んだっていい。死ぬのは怖くない。」と書いているのを見た。
そんなもん当たり前じゃろうが。
怖いのは生きとることじゃ。
と腹が立った。

昨日は、自粛する奴はチキン、とホリエモンが書いてるのを見て、
そんな言葉は見たくないのでブロックした。


わたしは正しくない。
正しくないのに、なんでこんなことを思うんじゃろう。
人のものの見方を、自分の体験や考えを総動員して頭の中で攻撃する。
自分が憎くて悲しい。


ずっと、
「自粛」という言葉に違和感がある。
地震や大雨の時に使われてたからかな、
「物資が足りないから」
「どこかで苦しんでいる人がいるから」
「楽しいことは我慢しよう」という言葉に聞こえる。
わたしだけかな…

自粛、って、感染症が拡がるのをくい止めようという時に使う言葉じゃないと思う。

楽しむな、なんて最初から言われていないのに。
できるだけ外に出ないこと
人混みに行かないこと
手を洗うこと
あちこちさわらない
さわったらすぐ手を洗う
という、
やるべきことがあるだけなのに。


はるは、もともと学校あんまり行ってないし、
人混みはまだ積極的には行かないようにしてきた、
もともと不自由だった
ほとんど変わらない生活の中で、
どうせ休みなら、のびのび
たのしみながら過ごそうと思ってきた。


わたしたちはそれで済むけど、
このままではやっていけない、という人がたくさんいる。

外出自粛、というのは、
ただ、ウイルスを広めないためで、
それがどうしてもできない人、
それをしたら生きていけない人や場所
を守るために、
みんなのお金を使うのが
政治家なんじゃないのか、
と、悲しくなったりした。

政府は、今も、
ひたすら「自粛して下さい」と言っている。

だから
まるで、自粛したがる人、したがらない人で
敵と味方になったりする。
意見や立場が違うだけで、敵じゃないのに。

わたしは、最初に書いたこの自分の
個人的な、悔しさ、悲しさ、怖れの中で
ものを見ている。



この間ツイッターに衝動的に書いた文章を
読み返して嫌になって全部消した。

あの文章も全部、
義憤みたいなものではなく、
「自分」が「今までどんなにつらかったか」
つらいか、
わかってほしかっただけだ。

わたしは、
マスクを強いられる生活も、
血が出るほど手を洗う生活も、
1年前が遠い昔に思える感覚も、
人混みを避けるため、気軽に行楽地へ行けないことも、
友だちには年に何回かしか会えないのも、
突然ライブができなくなることも、
先が見えず予定を立てられないことも、
わたしは ずっと、
こうだったんだよ!
と、心の中が叫ぶ。

外へ出て、ライブ演奏ができることは
奇跡のようなことで、
わたしにはもともと、
当たり前じゃなかった。

と、
駄々っ子みたいな、
ないものねだり。
足るを知らない感情。
お店の事情などとは、わけが違う、
小さな話なのにね…

でも時々たしかに満タンになって爆発する。

怒りに占領されるのは、肝心の、
はるの命が何度も何度も奇跡によって
たくさんの人の祈りによって
守られたことを
忘れているから。

少し落ち着けば、感謝だけになって行く。
「外にいる人」たちに、どんなに助けてもらったか。
なかなか出られなくても、
外へ出れば、普段どおりの世界があって、
どうしてもの用事の時は
看護師さんにお願いして外へ出ることもできた。
自転車をこげば
ひととき 生死の恐怖を忘れることができた。

外の世界で、今までどおり生きている人たちに会って、
気分転換をしたり、助けてもらって、そのおかげで、生きることができた。

病室から1歩も外へ出られず、それでも
不平の1つも言わず、
楽しみを見つけて淡々と過ごしていたのは
はるだけだ。
本人だけだ。

そんなことをどっかへ置いて
自分の悔しさに泣く。阿呆。
でも書いておきたかったよ。気持ちを。
これでいいや。
もうやめよう。




昨日、曲が完成した時、
とてもうれしかった。

朝、

わたしは元気です
元気でいるよ
元気で
また会おうね

だけを、人に
伝えたいと思った。

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